2013年8月12日月曜日

ペナンで麻薬の摘発が多い理由について、ひとつの考察



ご存知の通り、マレーシアに麻薬を持ち込んだ者は、死刑の宣告を受けることは、よく知られている。


それほど取り締まりの厳しいマレーシアで、何故麻薬摘発が多いのか、不思議に思っていた。


私の住居から程近いPulau Tiksのホテル経営者が、麻薬所持で検挙されたり、Balik Pulauでは麻薬製造の現場が摘発されるなど、身近な場所で起こっている。


空港で押収された大量の麻薬を、誇らしげに掲示する取り締まり担当者の写真など、地元の記事が多い新聞Starには、週に1回位掲載されている気がする。


どうして麻薬関連の犯罪がペナンに多いのか? ペナンの歴史を読んみると、18世紀も終わりの頃になるとペナンには、蒸留酒と共にアヘンの製造が始まっていたようだ。


フランシス・ライトの二つ目の功罪


クダのスルタンからペナン島を騙し取ったのが、ライトの一つ目の功罪とすれば、二つ目は自由貿易港の宣言をしたため税収が入らず、代わりに蒸留酒とアヘンで収入を補ったことだと私は考えている。


ライトは、1994年にマラリアで病死するが、その後もアヘンの製造と販売は継続し、特に販売はイギリスの行政官によって、スズ鉱山や港湾で働く中華系労働者(主に広東系)に流れ、シンジケートとして麻薬取引が、今も続いているのではないかと推測する。


推測でものを言うなとのお叱りを受けそうだが、私のブログは公的なものではなく、私的な独り言なので、読者もそれなりのインターネット・リテラシーで判断されていると理解する。


ペナンの小中学校でどんな風に歴史教育が行われているのか知らないが、少なくともイギリス系インターナショナルスクールでは、韓国の安重根と同様にライトを英雄視しているだろうことは想像に難くない。


そんな訳でフランシスライトが、基礎を築き上げた麻薬のシンジケートは、現在もペナンにイリーガル・ビジネスとして、見事に引き継がれているというのが、私のざっくりしたペナン歴史観である。



参考;ウイキペディアのペナンの歴史より抜粋

軍事でペナン島の支配権を確立したライトであったが、未だペナンに移民したイギリス人の数は少なく、労働者、資本家のいずれもが不足していた[9]。ライトは門戸を広く開き、土地を移民に気前よく提供する方針を固める。そのために行った最も思い切った政策は関税の撤廃であり、それらの方針はイギリス人のみならず、周辺地域の商人を強く惹きつけた[10]。ライトは関税歳入を切り捨てた分の収入を蒸留酒アヘンで補うことにし、1791年までに島内に生産拠点を設けた。結果、ペナン島の人口は急激に膨張した。特に関税撤廃の効果は高く、中国人、インド人、アラブ人、ペルシャ人や、近隣のシャム、ビルマ、イスラム教国、スマトラ人らをペナンに呼び込むことになった。それらの商人は一様にオランダの貿易独占に辟易しており、ペナンへの移住は大掛かりなものだった。この時期、ペナン島の人口は10,000人を数えるまでになったが、イギリス人の数は300人ほど[11]であり、それを遥かに上回る多様な民族が集まる交易地となっていた。支配者層を形成する白人がごくわずかな中でライトが選んだ舵取りの方法は、各言語コミュニティごとに代表者を立てて統治機構に組み入れることだった。これにより、ペナン島の各コミュニティは特色を失わずに存続していく。また、ライトは本国からの移民を増やすため、インフラの整備に尽力しつつ、カルカッタの総督府へペナン島の有用性を強く主張した。それらのペナンの売り込みに奔走していたライトだったが、1794年にマラリアに倒れ、そのまま息を引き取る